2016年7月22日金曜日

My Son


私には子供はまだいない。
ニュージーランドへも行ったこともなければ、犬を飼ったこともない。

タナカキヨミさんの初めてのご著書「My Son」には、私の体験したことのない事が沢山描かれている。
にも関わらず、読み終える頃には眩しくて懐かしくて暖かい気持ちになっている。
(渡辺つぶらさんによる挿画も最高に素敵でした)

この本を書かれたキヨミさんは、30代でご自身の会社を立ち上げて、バリバリ仕事をされた後、42歳で出産、お子さんが2歳半になった時に「この子は海外の方が向いているかもしれない」と感じ、その2年半後にニュージーランドへ移住された。それから再び日本で仕事をする為に帰国するまでの4年半の子育て奮闘記が描かれているのだが、それがとても4年半とは思えないほど、濃密で豊かな日々なのだ。

もちろん、滞在中の事を全て日記のように綴るわけにはいかないのだから、特に思い出深いエピソードが選ばれているのだろうけれど、この本には書かれていない、頁と頁の間の日々まで想像できるような、そんなキラキラとした内容の本だった。

私自身もきっかけは違えど、2歳半になった頃に米国ピッツバーグへ家族で移住し、そこで4年半を過ごしたので、共感する部分もとても多かった。

私のように2歳半〜6歳児でも、アメリカで過ごした記憶が断片的でも色濃く残っているのだから、5歳からの4年半をニュージーランドで過ごしたキヨミさんの"My Son"ゲン君は、きっと当時の環境にさぞかし影響を受けたのだろうなと思う。

ご近所さんが暖かくて優しかった事、裏庭でお誕生日会を開いてもらった事(私の時の出し物はピエロ、ゲン君の時はマジシャン)、合わない先生もいた反面、物凄く気の合う先生もいたこと、数少ない日本人と出会うと、家族ぐるみで仲良くなること。

鴨が家の中を行進(!)したり、蜂の大群を庭で目撃したり、大きな虹を見たり、そんな奇跡のような場面を親子で共有することは、何にも替えがたいことだと感じさせられる。
そしてこうした記憶は子供の方も、どんなに小さくても、その時の光や匂いなんかを覚えていると思う。
この本を読んで、あのキラキラした思い出の裏では、両親が子供のことを考えて新しいことに果敢に挑戦したり、悪戦苦闘したりしてくれていたのだなと改めて感じて、心からありがとうと言いたくなった。(同時に、うちの母にも忘れない内に当時の事をもっと聞いておきたいと思った)

先日、光栄にも「My Son」の出版記念パーティにお招き頂いて、キヨミさんと、元ご主人でコピーライターの渡辺裕一さん、そして5年ぶりくらいに"Their Son" ゲン君にお目にかかった。(出会いのきっかけについては、前ブログのこちらこちらの記事をご覧ください)

この秋からボルティモアの超名門大学院で現代音楽の作曲を学ぶゲン君は、初めて会った時の少年の顔から、お父さん譲りの嘘や混じりっけのない真っ直ぐな眼差しと、お母さん譲りの強さと優しさをたたえた青年になっていた。ニュージーランド産の美味しい白ワインを頂きながら、錆び付いていた英語を久々にひねり出してお喋りを楽しんだ。
「お母さんの本はもう読んだ?」と聞くと、「いや、読んでないよ」と言っていた。まさに自分についての本だから、照れくさいのだろう。でもいつか読む時が来たら、思い出が溢れ出てくるんだろうなあ、と思った。

本を読み終えてから、改めてパーティでのこの素敵なご一家のことを思い出すと、ああ、こういうお父さんとお母さんに育てられたからこういう風に育ったんだな〜・・・としみじみ感じるとともに、なんだか背筋が伸びた。

「My Son」は、今バリバリ仕事をされている方、いずれお子さんを持つ予定の方、子育て奮闘中の方、子育てが終わってこれからまた働こうと思っている方、海外生活を疑似体験してみたい方、どれにも当てはまらないけれど素敵な親子に出会いたい方に是非読んで頂きたいと心から感じる本でした。

最後に、出版パーティでゲンくんに「ゲンくんのお母さんも大好きなカーリー・サイモンのプロモーション・ビデオで、長いことボルティモアの港じゃないかなあと思ってる映像があるんだけど、知ってる?」と話していた港は、マサチューセッツ州ケープコッドの
Martha's Vineyardという島だったことが判明しました。
私の中で、勝手に素敵なキヨミさんのイメージソングなので、アップします。



Coming Around Again / Itsy Bitsy Spider - Carly Simon


・タナカキヨミ著「My Son」
・キヨミさんが運営をされている、素敵な50代女性の為のウェブマガジン

2016年5月13日金曜日

なんでもない日常〜懐かしい光〜


今朝、風にそよぐ洗濯物を眺めていて、眩しく、懐かしい気持ちになった。

薄いカーテンを揺らす柔らかな風

その先に揺れる洗濯物
(内容物:父のトランクス、母のブラウス、私のハンカチ、使い込まれたタオル等)

その背景で葉を揺らす百日紅などの庭の木

それを見ている私の頬を優しく撫でる風



幼い頃、ピッツバーグの家の裏庭で目にしたモミの木の葉の揺らめきと、

小学校の校庭で目にしたポプラの木の葉の揺らめきと、

20代後半にプロスペクトパークで目にした老木の葉の揺らめきと、

今見ている百日紅の葉の揺らめきは、全然別のものだけど、

「今しかないものを見ている」のは同じなんだなあ、と気がついた。

後にも先にもない「今」という圧倒的な瞬間


それが、「懐かしさ」の原因なのだろうか?


チャイムが鳴った。

頼んでおいた荷造り用のダンボールが届いた。

引越し先の家は、窓を開けると桜並木が続いている。

その桜の葉を揺らす風が、もう眩しい。








眩しい光、木の葉の揺らめきで思い出す曲
Swing Out Sisters "Now You're Not Here"

2016年4月25日月曜日

混沌と秩序〜大安吉日〜

先日、結婚式を終えた。
誰でもない、自分のである。

1月末からブライダル・エステなるものに通い、ドレスを選び、白無垢を合わせ、自分のカツラ姿に爆笑し、披露宴で流すための新郎・新婦の生い立ちビデオを作り、引き出物やBGMや装花を選び、直前で「まつエク」と「ジェルネイル」という慣れないものの装着を姉の指南で済ませた。

当日、挙式は赤坂の某・山王神社で 執り行われた。

祝詞奏上では、神主の声の震えと「中野区・渡辺◯○(父の名前)の愛娘ぇぇ〜」という部分が妙に可笑しくて、「まずい!声を出して笑ってしまう!」と咄嗟にうつむき、震えながら「うぐぅ!」と必死で笑いの波を封じ込めようとしていた。 そういう「笑ってはいけない所での笑いのツボ」に関しては、姉と同じものを共有しているので、姉の方は絶対に向かないようにしていた。笑いを堪える姉の姿が少しでも視界に入ってしまったら、もうOUTだとわかっていたから・・・。なんとか咳払いなどで誤魔化したものの、後ろにいた介添えさんにはバレていたに違いない。
(後日、新婚旅行先の箱根から姉にその件についてメールで聞いてみた所、「やっぱり!いやあ、あれは本当に辛かったよ」とやはり同じ思いでいたようだ。共感できた嬉しさと、自分の判断の正しさにホッとした。)

それからハイヤーで披露宴会場のホテル椿◯荘へ移動し、雨の降りそうな中、庭園での撮影が始まった。ここは、ホテルと提携しているプロのカメラマンに依頼していたのだが、のっけから「もっとくっついてみて!うん!そうよ〜♡」と妙なノリにここでも笑いを堪えた。出来上がりがコワ楽しみである。

そして、披露宴が始まった。
今回は、家族親族のみのとても小さなものにしたので、想像では盛大には盛り上がらないものの、アットホームな雰囲気で笑いに包まれる・・・予定であった。
現実は、「混沌」と「秩序」を絵に描いたようなものになった。
もちろん、「混沌」は私・新婦側のテーブルであり、「秩序」は新郎側のテーブルである。

そもそも、挙式の始まる前の親族紹介でも、うちの父は「え〜、まずは家内の・・・えっと、名前なんだったっけ?」や「姪はのちほど精神病院から向かうそうです。(一同固まる)あ、いえね、精神科医なんですよ(これは本当)あはは!」など、のっけから結構飛ばしていたのだが、これはまだ場を和らげようとする父独特のジョーダン外交術であるから、ヒヤヒヤしたものの、まあ予想はしていたことだった。

ところが、披露宴ではさらなるカオスが待ち受けていた。
最終兵器「叔母」である。

シラフの状態でも新郎兄が「なんか・・・一人だけテンション違う人がいるんだけど」と弟に耳打ちする程のお方なのだが、披露宴が始まる頃にはお酒というガソリンを満タンにして、アクセル全開!
ビールを手にテーブルを周れば「えみちゃん!それで5kg痩せたのぉ〜!?それで普通だよ!」やら、新居の場所を言えば「◯◯!?田舎だね〜!」(実際は自分の家から遠いというだけ)やら、「ねえ〜、もっと面白いことないの〜?」やら、ここまでは私が笑い飛ばしたり、言い返したりかわしたりすれば良いのでまだ良かったのだが、さらにガソリンが入ると新郎側テーブルにも飛び火しだした。この辺りで、もはや鎮火は無理だろう、と腹を据えた。私もふと気づけば、現実に対応しきれない時の痛み止めのおクスリ「酒」を、シャンパン、ビール、赤・白ワインとズラリと並べ、煽り始めていた。

気がつけばお開きの時間となり、ひとりひとりにギフトを手渡しながらお礼をいうと、叔母は「ごめんね〜、私やっぱりこういう場むいてないみたい」と言ったので、「うん、そうですね。でも嫌いじゃないよ。」と答えた。(あとで考えたら「いや、嫌いかも」とも思ったが)

親族は、時に手に負えない。
家族もそうだ。
でも、アウト・オブ・コントロールだからこそ面白いのかもしれない。
その後、友人夫妻と合流して飲んだ席で、格好の酒の肴話になったし。

私の思い描いた大安吉日は空想に終わったものの、結婚した事実と、混沌とした思い出は残った。

これからは、混沌もサラッと飲み干せる大きな器を作っていきたい。
(三々九度では三つの器のお神酒を飲み干したが・・・)




2016年1月28日木曜日

父語(基本編)

どこの家庭にも、もしくは友人や恋人でも、そのつながりの中でしか通じない言葉があると思います。略語であったり、「あれ」とか「それ」とか「あの木」とか。

例に漏れず、ウチにも存在します。
そしてそのほとんどは、父によって創造された言葉、つまり造語です。
「創造された言葉」と書くと、とても高尚なもののようですが、実際はとてもベチャッとしたもののオンパレードです。

まずは、説明なしで並べてみたいと思います。

ブンチャ
ぱーい
さーん
ガーヨちゃん
ねんコロッケ
チボン
豚まん
タタコン
ピンピョン
リンリン
キョトトンちゃん

これらは全て、W家(ウチです)では日常的に使われ、W家の者(呆けてしまったおばあちゃんを除く四名)であれば誰もがツーカーで通じるものです。
ひとつでも、意味がお解りになるものがあるでしょうか?

...ないです、よね?


では、説明します。

まずは「ブンチャ」。
これは、新聞の事です。
「ブンチャとって」「ブンチャどこ置いた?」といったように使われます。
昔は新聞記者の事を「ブンヤ」と呼んだらしいので、お解りになった方もいらっしゃるかも知れません。
ちなみに「チャ」が何なのかは解りません。

次に「ぱーい」と「さーん」、
これは「(ごはんを)もう一杯おかわり」と「ごちそうさま(ごちそうさん)」を意味します。

そして「ガーヨちゃん」と「ね(寝)んコロッケ」、
少し高度になりますが「おはよう」と「おやすみなさい」と同義語です。
飲んで帰って余りに眠い時は、「コロッケ...」と消え入るような声で言いのこし、寝室へ消えていくのがお約束です。

「チボン」
こちらは解らなくて当たり前、というよりも解ったらW家の隠しメンバー(隠し子!?)を疑います。
亡くなった祖父のニックネームで、「チビでボンボン」が由来だそうです。
(酷い)

「豚まん」
これはもっと酷くて、呆けてしまったおばあちゃん(父の母)を影で(あるいはオモテで?)こう呼んでいたそうです。おばあちゃんの名誉の為に、説明は省きます。(...素直に想像すれば当たります)

「タタコン」「ピンピョン」
・・・私の小さい頃の呼称で、作詞・作曲 by 父 の歌まで存在します。
今でもごくたまに、「ピンピョン」と呼ばれることがあります。
由来は、、、おそらく私のオノマトペのイメージなのだと思われます。

「リンリン」「キョトトンちゃん」
・・・これらは姉の小さい頃のあだ名です。
こちらも、姉をイメージしたネーミングのようです。


いかがでしょうか?

これらはごく一部で、他にもあるのですが、思い出そうとすると思い出せません。

でも、英単語と一緒で、まずは基本から。
「頻出単語・基本の100」のようなものです。
まずは音読をして、書き取りを最低10回ずつ、それから日常で使ってみることが大事です。いつのまにか目をこすりながら「コロッケ...」とつい言ってしまったら、こっちのものです。


あ!!言い忘れましたが、この造語はW家以外では通じません。
よって、覚えたところで役には立ちません。



でも、私は忘れないように使っていきたいと思います。



あ、もう夜中の2時だ。

ねんコロッケします。