2015年11月28日土曜日

小さな旅 〜Upstate New York 編〜(後編)

軽い気分転換のつもりで出かけた旅先で目にした雑誌の1ページで、まさか進路が本当に変わるとは、この時は思っていなかった気がする。
だけど、今でも鮮明に思い出せるそのページは、間違いなく今の私に至るあみだくじの起点だった。

少し遡ると、この19歳の時の1年間のニューヨーク留学に踏み出す前の年、私は大学に入学したものの、女子大の雰囲気に馴染めず(高校は女子校でも馴染めたのですが)、どうにか突破口を見つけようと、夏休みに興味のあることに片っ端か手を出してみていた。

まずは絵を描くこと。これは、今でも好きなのだが、本物の画家のように「描かずにいられない」という衝動がないことに気がつき、「んー、趣味でいっか」となった。(諦め早い)

次に、歌を歌うこと。この頃、通っていた大学と交流のあるK大の合同音楽サークルに入っていて、今思うとゾッとするのだが、楽器が弾けないという理由だけでガールズバンドのボーカルを担当していた。
ある日、K大の講堂でライブをやることになり、知り合いは誰一人呼ばずに当日を迎えた。
曲目は、当時好きだったバングルスの"Eternal Frame"と、ジュデイ・アンド・マリーの"Power of Love"の2曲だった。前者はバラードでゆっくりなのでなんとか歌えたのだが、後者は自分で選んだくせに、テンポの速さと高音と緊張とでズタボロだった。みじめだった。これを機に、歌はカラオケでいいやと決めた。

最後に、映像を撮ること。
これは、90年代後半当時ハマっていたMTVの影響が大きく、Daft PunkやBjorkなどのミュージックビデオを見ては「なんてクールなんだろう。私も撮ってみたい!」と鼻息を荒くしていた。そこで、当時通っていた英会話のグループレッスンで出会った女性が、ちょうど映像科に通っていて、高いビデオカメラを持っているというので、私が脚本兼監督、彼女が映像を撮るという条件付きで(勢いのみで)決行した。正直、ストーリーは一切覚えてないが、見た目の良い友人に頼んで、恵比寿の高架下で意味なく何回もダッシュをしてもらったことだけは覚えている。確か、Apollo440というミュージシャンの曲に合わせて。今思うととてつもなく青臭くて恥ずかしい内容だったと思うのだが、当時から重度のポジティブ思考だった私は、なぜか「これだナ」と感じてしまったのだ。しかも、この時の映像は、カメラを持っていた女性と喧嘩別れをしたことで、一度も見ることなく終わったにも関わらず。(出来れば、このまま一生見ることなく終えたい。)
それでも、絵や音楽よりかは向いている気がして、そのまま物凄い勢いで両親を説得し、ニューヨークへ飛び立ったのだった。

このような感じで、1997年の夏休みは「自分探し」ならぬ「自分の進路探し」に明け暮れていたのだが、翌年の春にニューヨーク郊外の田舎町の寝室で、進路がほぼ決定されようとは予測していなかった。

ロビンの実家からマンハッタンに戻ってすぐに、ユニオン・スクエアの"Barnes & Nobles"(大きな書店)で、初めの晩に目にした"Wallpaper" 誌の同じ号を購入し、その足で図書館へ行き、ニューヨークと東京のプロダクトデザインが学べる学校を探しあげた。

その後、ニューヨークではアートやデザインに関連する授業を聴講したり、街の空気を吸収することに勤しんだ。
帰国してからは、その時図書館で調べたデザイン学校のプロダクトデザイン科を受けて、入学・卒業し、デザイナーとして就職した。その後またひょんなことから、今度は活版印刷を理由に渡米して5年の滞在を経て帰国し、今に至るのだが、目を細く絞って振り返ってみると、多少ジグザグはしているものの、あの日雑誌をめくったときに「私はここがいい」と決めた領域には居るように思える。

微弱な電波にピピッと過剰に反応する思い込みと、小さな旅が重なって、今の私がいる。
この狂ったアンテナは、ちょっと大事にしたいと思う。




98年の6月頃、ミッドタウンのアパートの前でお別れの抱擁をするロビンと私



98年の夏頃流行っていたこの曲を聞くと、当時の記憶が蘇る

2015年11月18日水曜日

小さな旅 〜Upstate New York 編〜(中編)

ロビンの実家は、マンハッタンとはまるで違い、緑の深い場所にある、アメリカらしい一軒家だった。明るく誠実そうなお父さんとお母さんに出迎えられ、ゲストルームへ案内された。

"Make yourself at home"「(自分の家みたいに)遠慮なく寛いでね」
と言われた通り、伸び伸びさせてもらうことにした。

ゲストルームで荷物をほどき、ベッドサイドを見ると、"Wallpaper"という雑誌が置いてあった。初めて目にする雑誌だったが、ロビンの専攻であるインテリアの雑誌だと察しはついた。

夕ご飯まで時間もあるし、と寝そべってパラパラと捲り始めると、あるページで手が止まった。それは、シンプルな作りの花瓶やコップなどの写真と、それを作ったと思われる学生たちと先生が、教室のような所でカジュアルに立ち話をしている写真が載っているページだった。なぜか無性にその見開き2ページの世界観に惹かれた私は、夕食時にロビンに「ねえ、この人たちは何をしているの?こういうデザインはなんていうジャンルのものなの?」と興奮気味に尋ねた。

"It's called product or industrial design, and they are students."「これはプロダクトデザインとかインダストリアルデザインと呼ばれるもので、彼らは学生だよ」とのことだった。

この頃、ロビンからいわゆる「活きた英語」を沢山教わった。
その中でも、始めは聞き取れずにいたのに、帰国時には連発するまでになったのが、
"Awesome!"(アーサム)という言葉だ。意味は、"Cool"(クール)と同じようなもので、もっと今ドキ風の言葉とのことだった。

私は早速覚えたての"Awesome"を使って、そのプロダクトデザインとやらに無性に興味があること、マンハッタンに帰り次第、図書館で(ネットがなかったので)学べる学校を探そうと思うことなどをロビンに伝えた。ノリの良い彼女は、やったねエミコ、やりたい事みつけたね!協力するよ、と言って、ハグをして自分の部屋へ戻っていった。

私は胸が高鳴って眠る気になれなかったので、そのまま居間に残り、テレビを点けた。
MTVで、プリンス特集を流しているところだった。
パープル・レインのPVを見ながら、この人すごいなー、と思った。楽器はなんでも弾けて、声自体もエレキギターみたいで、毛深そうな上に身長も小さいのに、コンプレックスにもせず、むしろ自信満々で。見ていたら、なんだかムクムクと勇気と希望が湧いてきた。
(別に私の身長のせいではナイ)

翌朝は、夜更かしにも関わらず、スッキリと目覚めた。


〜後編へ続く〜

※書いているうちに色々と思い出してしまったので、
前・中・後の長編になってしまいました...。

2015年11月6日金曜日

小さな旅 〜Upstate New York 編〜(前編)



初めてニューヨークで「暮らした」のは、19歳、1998年の事だった。

当時はインターネットはおろか、携帯電話も普及していなかったので、手描きのルームメイト募集の張り紙をあちこちの美術大学の廊下に貼りに忍び込んだりした。

レターサイズの目立つ色の画用紙に、マジックで下記の情報をイラストを交えながらババッと書いた。

・Japanese girl, looking for a roommate (当方日本人女性、ルームメイト募集中)
・E.26st, Midtown, Manhattan (東26丁目、ミッドタウン、マンハッタン)
・Rent $XXXX/Month, One month deposit (家賃◯◯ドル、敷金ひと月分)
・Seeking for a polite WOMAN (礼儀正しい女性を募集)
・Non-smoker (禁煙者)
・Please contact 212-XXX-XXXX (ご連絡はこちらまで)

このようなことを、街中で見かけた張り紙や、ビレッジボイスなどの募集広告を見て、見よう見まねで書き連ねた。下の部分に電話番号を10列くらい書き、境目にハサミで切り込みを入れて、気になる人がいれば、そこだけもぎ取れるようにした。
(今のようにネットで拡散の心配がなかった頃は、このように個人情報はあけっぴろげだったような気がする)

メールがないため、電話番号を書く他なく、初めはドキドキしたものの、2、3人と対応している内に、電話越しの話し方だけで(自分にとって)アリかナシか何となくわかるようになった。確か4人目くらいにかけてきてくれたロビンという同い年くらいの女性の話し方にピンときたので部屋を見に来てもらい、お互い気に入り、少しの間一緒に住むことになった。

私の方は、ニューヨーク・フィルム・アカデミーという映画学校へ通う為に渡米したものの、あることがきっかけで取りやめにし、渡米ひと月目にして先行きが白い煙に覆われていた。

ある日、そんな私を見兼ねて、ロビンが自分の故郷のアップステート・ニューヨークへの里帰りに一緒に来いと誘ってくれた。はっきりとは覚えていないが、シラキュースあたりだった気がする。そしてそれはたった2泊3日ほどの旅だったのだが、私のその後の人生を変えるきっかけをくれた旅でもあった。


後編へつづく